中田 英寿
ファッションという観点からみれば、長きにわたって日本は過小評価されてきた。しかし、この国で最も偉大なフットボーラーの1人として知られる中田英寿がピッチ上のみならず、ピッチ外でもこの認識に変化を起こした。サムライ・ブルーの中核を担い、1998年に日本をワールドカップ初出場に導いた彼はこの大舞台で、フランスに訪れた欧州のスカウト陣にアピールするため髪を金髪に染めて本番に臨み、ステップアップを図っていた。
その狙い通り、中田はひときわ目立っていた。濃いブルーを基調とした日本のホームユニフォームとのコントラストが映えたくせ毛のブロンドは、スタンドからもテレビカメラを通した映像からも一番に目に飛び込んでくるものだった。
アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカとグループリーグを戦った日本は最下位に終わり、ノックアウトステージに進出することはできなかったが、中田はペルージャからの関心を勝ち取っていた。攻撃的なセントラル・ミッドフィルダーとしてベルマーレ平塚で活躍していた中田はチームを後にしてイタリアへと渡り、日本人として2人目のセリエAプレーヤーとなったのだ。最初にセリエAへの道を切り拓いたのは、その4年前にジェノアへと加入した三浦知良。現在、世界で最も高齢なプロフットボーラーとして有名な彼は、スタイリッシュなスーツや髪型で日本のファンを熱狂させている。
日本のデイヴィッド・ベッカムとしてもてはやされることも多かった中田は、その後も2度のワールドカップ(2002、2006)に出場した。セリエAではローマ所属時の2000-01シーズンに優勝を経験、翌年にはパルマへと移籍してコッパ・イタリアのタイトルを獲得している。2006年に29歳の若さで引退を発表した彼が最後にプレーしたクラブは、プレミア・リーグのボルトン・ワンダラーズだった。
中田は引退前の2004年3月、FIFA創設100周年を記念してペレが選出した『FIFA100(偉大なサッカー選手100人)』にその名を刻んだ。彼はフットボールの神様のリストに名前が挙がった唯一の日本人であり、アジア人プレーヤーとして選出されたのは彼を含めて2人しかいなかった。
日本でフットボール人気が頂点に達する前にJリーグを卒業してイタリアで名を馳せた中田は、そこでファッションカルチャーを全身に浴び、デザイナーブランドの服を身に着けてファッションショーに参加することもあった。カルバン・クラインのモデルを務めたことでも有名な彼は、デザイナーのニコラ・ジェスキエールとも親交が深く、華々しい世界に身を置いているようだった。