Words by Yuto Suzuki
2017年5月14日、イングランド・ロンドン北部ではトッテナムの本拠地であるホワイトハートレーンの閉会式が行われていた。スタジアム上空には虹がかかり、集中的な豪雨にもかかわらず、日曜日の試合後には何千人ものファンがピッチに流れ込む光景があった。愛着があり、数えきれないほどの思い出が詰まった場所に別れを告げることは胸が痛む。だがスパーズのレジェンドであるクリス・ワドルが語ったように、現代のフットボールで常にトップに居続けるためには、流れ行く時間とともに行動し、変化しなければならないのだ。
White Hart Lane / ホワイトハートレーン
1899年に産声をあげたホワイト・ハート・レーン。その歴史は、醸造家のチャリントンが所有していた、使われなくなった保育園をクラブが引き継いだことが始まりです。ノッツ・カウンティとの初めての試合には5000人が集まり、5年以内にスタジアムの収容人数は32000人となりました。1909年にフットボールリーグの資格が与えられると、建築家のアーチボルド・リーチはスタジアムのスタンド再開発を計画し、当時の英国最大であるスタンドを作り上げます。スタジアムには、スパーズを象徴する銅の雄鶏とボールが飾られました。その後もスタジアムは再開発が進み、20世紀初頭のファンには認識ができないほど、洗練されたスタジアムへと変貌を遂げました。
クラブの発展と進歩を進めるため、2017年5月14日、マンチェスターユナイテッド戦を最後に閉場。約118年という長い年月をもってその役目を終えました。試合を終えた翌日には取り壊しとなり、クラブはロンドンの新たなランドマークとなったトッテナム・ホットスパースタジアムへと移行しています。ちなみに新スタジアムの収容人数はアーセナルのエミレーツ・スタジアムよりもちょっぴり多い、62850人。
Boleyn Ground (Upton Park)/ アプトンパーク
ケイティ・ペリー、バラク・オバマ、マットデイモンにアイアン・メイデンのスティーブハリス、フーファイターズのデイヴ・グロール…世界で最も熱狂的なファンベースを持つことでも有名なウェストハム・ユナイテッド。
彼らのかつてのホームスタジアムは通称アプトン・パークとして知られ、約112年の間、ハマーズの歴史とファンの思い出をつかさどってきました。クラブの代表的な応援歌である 「I'm Forever Blowing Bubbles」にあるように、ホームゲームとなればスタジアムには無数のシャボン玉が飛び交い、当然その伝統は現在の本拠地であるロンドン・スタジアムでも引き継がれています。
Estadio Vicente Calderon / エスタディオビセンテカルデロン
1966年からアトレティコ・マドリードの本拠地として使われていたビセンテ・カルデロンは、建設面、財政面、管理面で多くの問題を抱え、工事開始から最初の公式戦を行うまで、実に7年という建設時間を要しました。建築家として設計を行ったハビエル・バローゾは、1920年代にはクラブのゴールキーパー、30年代にはコーチ、40年代~60年代には王立スペインサッカー連盟の会長を務めていた人物として知られています。バローゾは当初、新スタジアムを大学都市に建設予定でしたが、マンサーナレス川のほとりに良い値段での土地がみつかったため、予定を変更。しかし実際には川の近さが原因で、基礎工事をしなければならず、当初の計画よりスタジアムのコストは高くなっていたといいます。
ビセンテ・カルデロンは、ローリングストーンズ、マドンナ、マイケル・ジャクソン、コールドプレイ、ボン・ジョヴィなど、数多くの世界的アーティストがライブを行ったコンサート会場としても有名でした。
Highbury / ハイバリー
岩渕真奈、冨安健洋と、今年になって2人の日本人選手が加入したアーセナル。クラブの本拠地として1913年から2006年まで使用されていたのが、アーチボルド・リーチが設計したHighburyです。(ちなみにリーチは、トッテナム、マンチェスターユナイテッド、チェルシー、エヴァートン、リヴァプール、グラスゴー・レンジャーズなど数多くのクラブのスタジアムを設計している)
ハイバリーでのラストゲームは印象的でしょう。ティエリ・アンリがハットトリックとなるPKを決めた後、ピッチに別れのキスをしたシーンは鮮明に覚えていますし、なにより、この日は最大のライバルであるトッテナムが破れ、アーセナルがチャンピオンズリーグの出場権を獲得した日でしたから。
Stadio Delle Alpi / スタディオデッレアルピ
Stadio Delle Alpi について、あまり良い印象を抱くことはなかったのではないでしょうか。1990年、W杯を備えていたイタリアはより大きなスタジアムを求めていました。そうして同年に作られたのが、トリノとユベントスの本拠地として知られていた Stadio Delle Alpi です。トリノ市から約2億ユーロ(現在のユーロ価値)の資金が支払われたのはいいものの、資金の一部はイタリアオリンピック委員会(CONI)から提供され、CONIは陸上競技場を設けることを要求しました。そのため、ピッチから遠く離れたスタンドは、非常に視界が悪く、トリノとユベントスのファンはそれに耐えきれませんでした。
約70000人収容の大きなスタジアムでしたが、町から離れていたため思ったようにファンが集まらず、資金調達のコストが高く、維持費も莫大だったため、結局スタジアムはわずか18年で取り壊しに。陸上競技場はほとんど使われていなかったといいます。
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